人・本のタネ

イチロー選手の成績の秘訣とは、、、

イチロー選手といえば、たとえ野球のルールを知らなくても、日本人なら誰もが知っている人ですよね。

アメリカ人でも、総理大臣の名前は知らなくてもイチロー選手なら知っているという人が多くいます。

驚異的なヒット数、発言の深さからも伺える独自の哲学。
選手としても人としても魅力的な方であり、『天才』と言われ続けてきました。

今回はイチロー選手の人生を紐解いていこうと思います。

幼少期

1973年10月22日、イチロー選手こと鈴木一朗は、愛知県西春日井郡豊山町で生まれました。
体重は4280グラムで、生まれながらにして非常に恵まれた体格でした。

3歳の時に父からおもちゃのバットとボールをもらったのですが、その日から寝る時も離さなくなったほど野球好きな子どもだったそうです。
http://www.kodomo-ouen.com/interview/01.html(イチローの父鈴木宜之さんインタビューより:)

小学校低学年


小学3年生の時に地元の野球チームに入ります。
当時は日曜日しか練習がなかったたため、
平日はお父さんと野球する」と言い出して、毎日学校から帰って来てから暗くなるまで父とキャッチボールをしていたんだとか。
イチロー選手はそれから小学校を卒業するまでの4年間、本当に1日も欠かさずに練習を繰り返したそうです。

毎日練習に付き合うお父さんも素晴らしいですが、小学生にしてのこの『継続力』。
友達と遊びたい時期で、自分への妥協を許さない信念と継続力があったからこその今と言えますね。

のちにイチロー選手はあるインタビューの中で、このような事を言っています。

小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています

小学校高学年

しばらくすると、飛距離が伸び場外ホームランを連発するようになりました。
そこで、イチロー選手は毎日学校が終わると、父との練習のほかに、バッティングセンターに毎日通い詰めていました。
3年生の時には速度100キロの球を打っていたそうです
ちなみに小学6年生でも100キロ投げる投手はなかなかいません。
私の後輩(後に神宮大会優勝投手)ですら小学6年生で106キロでした。笑

余談ですが、イチロー選手と同じバッティングセンターに通っていたイチローの1学年上の稲葉篤紀さん(現侍JAPAN監督)は、「隣のケージで、同い年ぐらいぐらいの子が、ガンガン打っているのを見て、ビックリした」と証言しています。
 

ここまで聞くと、勉強もせずに毎日野球ばっかりしていた野球小僧と思われがちですが、実はイチローは野球以外にも習字塾やそろばん塾、囲碁もやっていました。
野球だけでなく、学業においても優秀であったそうです。

こちらが、イチローが小学6年生の時に書いた作文です。

佐藤健「新編イチロー物語」62〜63ページから d:ymrl:20120128:1327686246
佐藤健「新編イチロー物語」62〜63ページから 引用

『ぼくの夢』
愛知県西春日井郡 とよなり小学校   6年2組   鈴木一朗

ぼくの夢は一流のプロ野球選手になることです。
そのためには、中学高校と全国大会に出て活躍しなければなりません。
活躍できるためには練習が必要です。
ぼくは、3歳のときから練習を始めています。3歳から7歳までは半年くらいやっていましたが
3年生の時から今では、365日中360日は激しい練習をやってます。
だから1週間中で友達と遊べる時間は、5~6時間です。
そんなに練習をやっているのだから、必ずプロ野球選手になれると思います。
そして中学、高校と活躍して、高校を卒業してからプロに入団するつもりです。そしてその球団は、中日ドラゴンズか西武ライオンズです。
ドラフト入団で契約金は1億円以上が目標です

ぼくが自信があるのは投手か打撃です。
去年の夏、ぼくたちは全国大会に行きました。
そして、ほとんどの投手を見てきましたが、自分が大会NO1選手と確信でき、打撃では県大会4試合のうちホームラン3本を打ちました。
そして、全体を通した打率は5割8分3厘でした。
このように自分でも納得のいく成績でした。
そしてぼくたちは、1年間負け知らずで野球が出来ました。
だからこの調子でこれからも頑張ります。そしてぼくが一流の選手になったら、お世話になった人に招待状を配って応援してもらうのも「夢」のひとつです。
とにかく1番大きな夢は、プロ野球選手になることです。

正直私はこの作文を読んで鳥肌が立ちました。
プロ野球選手になりたいという小学生はたくさんいます。そして、その中で実際にプロ野球選手になれたと言う人もいるでしょう。しかし、ここまではっきりと作文に具体性を持って書ける小学生はなかなかいないのではないでしょうか。

担任の先生からは、「大きな夢があるって、とても張り合いがあっていいですね。誰にも負けないぐらい練習をしてきたという誇りがある限り、夢は叶うでしょう」という言葉をもらい、喜んだそうです。

中学時代

中学校クラブチームには入らず、小学生時代の仲間と共に学校の野球部に所属します。
エースで中軸(主に3番)を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たしたそうです。
また、学業の成績も非常に優秀で、学年では常にトップ10に入っていたといいます。
愛知の高校から様々な推薦をいただき、愛工大名電へ進学します。

高校時代

甲子園が目標ではありません。プロになれる選手に育ててほしい

豊山中の3年生だったイチロー選手とお父さんである宣之さんは、入学前、愛工大名電の監督にそう言ったそうです。

任せてください」と監督は返答したが、目の前にいる痩せぎすの中学生がどれだけの可能性を秘めているのか。監督とイチロー選手が出会った当時は身長170センチ体重55キロでした。入学当時も身長171センチ、体重63キロと決して恵まれた体格ではなく、工藤公康や山崎武司をはじめ、同校に赴任して11年間で10人の教え子をプロの世界に送り出していた名将も、このときはまだわからなかったとか。

しかし、監督はイチロー選手の才能にはすぐに気付かされます。
監督はその時の記憶をこう話します。
ボールを芯でとらえる感覚がずば抜けていました。入学前の練習試合で起用したら、いきなり活躍したので度胸もあるな、と
 2年生の捕手だった日比野公彦も、その試合を記憶していました。
当時はうちで野球するのは無理だと思うほど痩せていましたが、いきなり鋭い打球をセンター前へ運んだんです。そのあとも2本ヒットを打ったはずです。これは凄い奴が入ってきたぞって思いましたね

監督は親分肌な気質を持つ日比野に、こんな指示を出しました。
あいつは必ず戦力になる。上級生につぶされないよう、ガード役として守ってやれ」
 愛工大名電の野球部は、1年生から3年生まで50人ほどの部員が寮で生活します。二段ベッドが並ぶ大広間で、全員が寝起きを共にするのである。どこか神経質そうな1年生がときに理不尽な上下関係に苦しみ、精神的に追い詰められるのを中村は懸念したのです。
 ですが、日比野がガード役として特別なことをする必要は全くありませんでした。
「ふだんは茶目っ気のある男でしたから、上級生にも気にいられていました。それに野球に取り組む姿勢は誰もが認めていたから、そういう対象にならなかった」と。

しかし、そんなイチロー選手ですが、一度野球を辞めようと父に相談したことがあります。
父は理由を一切聞かずに、「後悔先に立たず、ということがある。自分でしっかりと考えなさい」とだけ言いました。見守ることに徹したのです。

子どもが落ち込んだ時は、見守ってあげる大人が必要。そうすれば、子どもはやがてまた、自分で歩き始めるはず。
父の考える教育を表した言葉でした。

また、イチロー選手の父は、連日イチロー選手の練習を見るために午後3時半になるとグラウンドに通い、
そして練習が終わるまでは、決して椅子に座らず、ずっと立ったまま、じっと見ていたそうです。

父曰く、「息子が戦っているのに、座ってなどいられるか!」との事だが、
それでも毎日立ち続けて練習を見守るというのは並大抵の親ではないですね。

 
イチロー選手は、1年生の秋からレギュラーとして活躍し、2年生夏には外野手として、3年生春には投手として甲子園出場を果たしていますが、いずれもチームは初戦敗退でした。

 それでもイチローは、高校時代から驚異的な打率を残している。イチローの、高校3年間の公式戦での通算打撃成績は、
536打数269安打、打率.501 本塁打19本 二塁打74本 三塁打28本 盗塁131という、凄まじい物であり、
三振に至っては、3年間で僅か「3」のみというのだから、本当に凄い。

「イチロー 高校」の画像検索結果

ある意味3つの三振を奪った選手の方が気になりますね笑 

センター前ヒットなら、いつでも打てますよ
と、イチロー選手は監督に豪語していたとの事だが、その言葉からもイチロー選手の強烈な自信が伺えます。
 
そして、高校3年生(1992年)夏、イチロー選手はエースとして、甲子園出場を目指したが、
残念ながら愛知県大会の決勝で東邦に敗れてしまい、最終学年の夏は、イチローは甲子園に出場する事は出来ませんでした。
 
しかし、この地方大会でのイチロー選手は、打率7割を超えるという、物凄い猛打を発揮しておりました。
 

高校時代の監督である中村豪さんは選手たちに口酸っぱく言ってきた言葉があります。

それは、
やらされている百発より、やる気の一発

いくら監督やコーチが熱を入れても、選手側が「やらされている」という意識でダラダラ練習をしていたのでは何の進歩もない。
やる気の一発は、やらされてすることの百発にも勝る。

その事を当たり前のように実践していたのが高校時代のイチロー選手でした。
深夜の真っ暗な中でも1人黙々と素振りを行うこともあり、グランドに幽霊が出ると噂になる程、『自らが求めて行動する』という意識が強かったのです。

プロ野球選手時代

イチローはドラフト4位でオリックスに入団をします。
こんなに凄い選手がドラフト4位?!と驚くかもしれませんが、イチロー選手は甲子園ではあまり活躍ができていなかったという点と、まだまだ体の線が細かったがために、金属バットから気のバットに変わるプロでは、通用しないのではないか?というのが理由でした。(一般的に木のバットは金属バットよりも飛距離がなくなります)
 

プロ1年目


1992年の対福岡ダイエーホークス戦(現ソフトバンクホークス)で途中出場ながら1軍初出場を果たします。
そして翌日にはスタメン出場を果たし、プロ初安打を記録。

1年目ながら2軍で打率366を記録し、2軍の首位打者を獲得。
しかし、1軍のコーチや監督には打ち方(振り子打法)を変えるように指摘されます。理由としては、「足の速さを生かしてゴロを打つような打撃方法にするべきだ」というものでした。しかし、イチロー選手はそれを拒否。
レギュラーになるために気に入られようと素直に言う事を聞くのではなく、自ら考えて行動に移すところがイチロー選手らしいですね。

「イチロー」の画像検索結果

プロ3年目


この年から、登録名を「鈴木一郎」おなじみの「イチロー」に変更します。
そして、この年からオリックスの監督に就任した仰木監督に類いなる打撃センスを見抜かれ、即座に1軍定着。

あまり詳しく書くとWikipediaのようになりかねないので割愛しますが、1年間でヒット数が210本積み重ね、最多安打、首位打者、最高出塁率、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、シーズンMVPまで獲得。

21歳のプロ3年目で異次元の選手に成長します。

そして私が思う、イチロー史上最強の年「1995年」

1995年シーズン成績・記録 130試合 打率.342 179安打 25本塁打 80打点 49盗塁

と圧倒的な記録を残し、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率という「打者5冠」を達成。
1番打者として打点王を獲得することはなかなかない上に、打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在もまだ現れていない)であり、本塁打25本は1位の小久保にたった3本差であった
そのほかにもシーズンMVP・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞も受賞。そしてチームはをリーグ優勝に導いた。

結果的に2000年まで7年連続首位打者を記録、年俸も5億円を突破し、2000年シーズン終了後にメジャーリーグ挑戦を表明。

メジャーリーガー イチロー

 
日本人野手初のメジャーリーガーとして注目の中のメジャー1年目。
イチロー選手は交渉権を獲得したシアトル・マリナーズに3年契約入団しました。
 日本で7連続首位打者と日本人最高の野手としての挑戦でしたが、入団当初はアメリカの野球ファンは日本最高選手の実力に懐疑的でした。
実際にそれは年俸にも現れており、イチロー選手のメジャー1年目の年俸は約5億6000万円ほど。現在ヤンキースで活躍する田中将大投手の1年目の年俸が22億であったことから
いかにあまり期待されていなかったかどうかがわかりますね。

当時のマリナーズ監督は「打率は2割8分くらい打ってくれたら充分だよ」とそこまで期待はしていませんでした。
かつて解説者であったディブル氏はイチロー選手に対してかなり否定的で「イチロー選手が首位打者でも取ろうものならニューヨークタイムズスクエアを裸で走ってやる」と豪語。
マリナーズのチームメートも、こんな細い選手が通用するはずがない。と否定的でした。

また、背番号51についても、当時のマリナーズではランディジョンソンの番号というイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」という理由であまり好意的には見られていませんでした。

監督やチームメート、ファンからもイチロー選手は活躍しないと思われていたのです。

その後の周りの反応は、、、みなさん想像がつくと思います笑

開幕戦からヒットを打ち、攻守にわたってハイレベルなプレーを披露
そして、イチロー選手の代名詞『レーザービーム』が生まれたのもこのメジャー1年目の4月でした。

ー1年目の4月でした。大興奮の実況アナウンサーが『レーザービームのような返球だ!!』と言ったことで生まれた有名なシーンです。

そして5月には野茂選手との日本人対決が実現。
イチロー選手がプロ野球選手になって初めてホームランを打った相手が野茂選手であったこともあり、多くのファンが注目しました。

93年6月、野茂(手前)からプロ初本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周するイチロー
https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikaraheisei/news/201904090000190.html 引用

その後は、新人ながら最多の337万票を獲得して6月のオールスターにも選出されるなど、ファンにも認められる圧倒的な活躍を見せました。
結果的にイチロー選手は1年目で首位打者・最多安打・盗塁王・ゴールデングラブ賞・シルバースラッガー賞・新人王とタイトルを独占。

シーズン前に「イチロー選手が首位打者でも取ろうものならニューヨークタイムズスクエアを裸で走ってやる」と豪語していたディブル氏は公約通りタイムズスクエアをパンツ1枚で走っていました笑笑

周りからの評価を自らの結果で示したイチロー選手でしたが、もともとメジャー表明に対して、
メジャーリーグに挑戦や通用するといった次元で考えていなかったそうです。いかにメジャーでもトップになれるかを常に考えていたそうです。

2年目以降

2002年シーズン成績・記録 157試合 打率.321 208安打 8本塁打 51打点 31盗塁   獲得タイトル ゴールドグラブ賞
2003年シーズン成績・記録 159試合 打率.312 212安打 13本塁打 62打点 34盗塁    獲得タイトル ゴールドグラブ賞

メジャー4年目でイチロー選手は伝説となります。84年間破られることのなかったシーズン257本の最多安打を更新。結果的に262本まで積み重ねました。

2004年シーズン成績・記録 161試合 打率.372 262安打 8本塁打 60打点 36盗塁
 
最多安打記録257安打を84年ぶり更新(262安打まで更新)
シーズン最多単打225 (106年ぶりに更新)
シーズン1試合5安打4回 シーズン月間50安打3回
獲得タイトル 首位打者 最多安打 ゴールドグラブ賞

その後は2010年まで10年連続シーズン200本安打を達成

そして、 2016年6月15日のパドレス戦で、日米通算4257安打を達成しピート・ローズ氏の持つメジャー最多安打記録を更新。
通算安打世界1位となりました

引退

2019年3月21日、開幕シリーズとなる東京ドームで行われたアスレチックス戦2試合に出場後、引退を発表しました。

「イチロー」の画像検索結果

しかし、実は引退後もイチロー選手は野球をやっています。純粋に野球を楽しみたいという理由から友人と共に草野球チーム「KOBE CHIBEN」を設立しました。
イチローは自らオーナー兼監督兼エースを務め、現役時代に神戸市内での自主トレをサポートしていた友人らで構成されています。
また、将来的には草野球リーグを設立したい考えも明らかにしたとも言っています。
イチロー選手が設立した草野球のリーグなんてわくわくしますね。
12月上旬に高校野球の強豪、智弁和歌山高の教職員チームとほっともっとフィールド神戸球場で初陣に臨みました。

まとめ

今回はイチロー選手の生い立ちから引退までをまとめてみました。
いかがだったでしょうか、数々の名言、成績とても素晴らしいものですよね。

成績の秘訣は、イチロー選手の才能だけではなく、努力など人一倍され、それを継続された結果が、このイチロー選手の伝説を作り上げた秘訣ではないでしょうか。
また、これからの草野球でのイチローさんの活動に目が離せませんね。

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