人のタネ

孫正義 の『志』前編

人物編 第一回はソフトバンクグループ創業者の『孫正義』について、彼の人生に沿って紐解いていこうと思います。

孫正義とは

ソフトバンクグループの創業者として知られ、ソフトバンクグループ代表取締役会長兼社長やソフトバンク取締役会長、ヤフー取締役、スプリント会長、アーム会長、アリババ取締役、福岡ソフトバンクホークス取締役オーナーなどを務めています。

幼少期


在日韓国人実業家の二男として佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に出生した。

父親は、密造酒と製造販売と消費者金融・パチンコ業で大成功し、高級車を何台も保有するほどの裕福な家系でありました。

15歳 1冊の本との出会い

孫正義は普通の人と変わらず、サッカーや野球などに打ち込み、明るい小学生、中学生時代を過ごしました。
しかし、家庭教師からのススメで「龍馬がゆく」(司馬遼太郎)を読み、衝撃を受けたのです。

これをきっかけに15歳の時、高校を中退。そしてアメリカへ渡米することを決意します。

しかし渡米の時期は父は血を吐いて入院しており大変な時期。比較的裕福な家庭ではあったものの、決して快く受け入れられながらの渡米ではありませんでした。家族や親戚からはもちろん、高校1年生の1学期ということもあり、先生からも「高校を卒業してからでもいいのではないか?」「退学ではなく、休学扱いでもいいのではないか?」と言われたそうです。

しかしその時、孫正義は先生にこう言いました。
「先生、僕は弱い男です。困難にぶち当たったとき、挫けたとき、故郷に戻れる居場所があると戻ってきてしまう。それでは腹が座らん。退路を断たないと困難に立ち向かえない」

そう言って退学届を出し、渡米したのです。

この渡米は、坂本龍馬同様、孫正義の中での脱藩でした

龍馬がゆく」という本は、孫正義の”志”が芽生えるきっかけとなったものでした。
その志とは、決して明確な目的や目標があるものではありませんでした。
しかし、「何かでかいことをやり、多くの人々を助けたい。人生を燃え滾らせたい、引きちぎれるほど頑張ってみたい」と
いうふわっとしたものの中にも確固たる決意がありました。

15歳 藤田田との出会い

孫正義のアメリカ渡米には、もう一つのきっかけがありました。
それが藤田田という方との出会いです。
藤田田とは、日本マクドナルドの創業者であり、また日本トイザらスの創業者でもあります。

「藤田田」の画像検索結果


藤田田の「ユダヤの商法」という本を読み、この人に会うことを決意します。
なんども藤田田の会社に足を運び、なんども門前払いを食らう。それでも諦めずに何度も何度も足を運ぶことでやっと会うことができます。
そして、「アメリカへ留学に行く予定なのですが、何を勉強したらいいですか?」と聞きます。
藤田田は、「これからはコンピュータの時代が来る。コンピュータを学べ」と孫正義に言います。
日本でマクドナルドやトイザらスを経営しており、コンピュータとは無縁の生活を送っていた藤田田はすでにコンピュータの未来が見えていたのです

アメリカでの生活

アメリカで、孫正義は死ぬほど勉強をしました。肺炎になってもそのことに気づかないくらい勉強に打ち込みました。トイレにいる時も、道を歩いている時も、ご飯を食べている時もずっと教科書から目を離さなかったそうです。
寝る時間も最小限にとどめ、寝る以外は常に勉強。
孫正義は実際、「この世の誰よりも勉強している自信がある」と言っているほどです。

アメリカに渡米し、高校1年生として入学した孫正義でしたが、1週間で高校1年生の全ての勉強をマスターし、校長先生に掛け合い、たった1週間で2年生に進級させてもらいます。
そして、2年生・3年生もたった3日間で教科書をマスターしました

孫正義の高校生活は日本での1学期期間と、アメリカでの約1ヶ月のたったこれだけであったそうです。

孫正義はカリフォルニア大学に進学し、そこでもめちゃめちゃ勉強します。

実は、大学入試でも孫正義の伝説があります。

大学入試の際、アメリカなので、当然全て英語で書かれ、英語で答えるのが当たり前です。
しかし、孫正義は、試験官にこう言います。

この問題が日本語で書かれていたら絶対に解けます。なので、辞書を貸してください。そして辞書を引く時間も必要なので試験時間の延長を求めます

前代未聞すぎますね笑

結局試験官だけでは判断できず、上司に指示を仰ぎます。そして上司がその上司へ…最終的に州知事のところまで話がいき、
直接話をし、なんと許可をもらうのです。

藤田田との出会いといい、試験官への交渉術といい、すぎすぎるパワーの持ち主ですね。

そして、大学3年生の時、ある出会いがあります。

19歳 マイクロコンピューターのチップを見る

19歳の時、たまたま科学雑誌に載っていたマイクロチップを見た瞬間、全身から身の毛もよだつ思いを感じたそうです。
この小さなチップ一つにとてつもないほどの未来を感じました。

それから孫正義は、
1日5分間を勉強以外のことに自分自身に与え、1日1つ何か発明しよう。

その発明の中から一山当てるきっかけを作ろうと考えました。
孫正義にとってこの5分間は、勉強から解放され、自由を与えらる唯一の時間でした。

超有名な大学教授や専門家をバイトとして雇い、最終的に、1年間で250個もの発明品を作り出したそうです。

教授や専門家を雇う際、孫正義はこう言って手伝ってもらいました。
みなさんの言い値を払います。欲しい金額を自由に書いてください。必ずその金額を払いましょう。
しかし、払うのは発明品が売れて、それがお金になった時です。発明品が売れない限りはあなたたちにお支払えるお金もありませんので、タダ働きになります。

面白い大学生がいる。
そう周りからは思われ、多くの有名専門家が力を貸しました。

19歳で「音声機能付き他言語翻訳機」を含む、2つの発明品に特許がおり会社を起こします。
その2つの発明品は2つ合わせて3億円以上で売却しました
ちなみに音声機能付き他言語翻訳機はシャープへ1億円以上で売りました

当時の、孫正義の人生50カ年計画がこちらです。

20代で名乗りを上げる

当時のアメリカの大学生の中で優秀な人は大学院へ行くことが普通となっておりました。

孫正義の友人も多くが大学院へ行きます。
大学生の時からすでに有名であった孫正義には、ハーバード大学など有名な大学院から日本でいう特待生なものとして招待状がいくつも届きました。

しかし、孫正義はその誘いをすべて断ります。
そして、学生時代に起こした会社を売却し、日本へ帰国、そしてソフトバンクという会社を立ち上げます。

登りたい山を決める

日本に帰国して、1年半が経ちましたが、孫正義は悩みます。

今後、自分はどうしていきたいのか。
今までは何かを成し遂げたいというふわっとした思いはあっても具体的な目的がありませんでした。

そして、このように考えます。

登りたい山を決める。これで人生の大半が決まる。

人生の一生を捧げるに相応しいものは何か。
一度登りたい山を決めると、人間はそれに向かって歩む。

小さい山を設定するとそれなりの人生にしかならないと孫正義はわかっていました。

そして、孫正義は登る山を決めます。
孫正義にとってのそれは「デジタル情報革命」でした。
デジタル情報革命で知恵と知識の共有を推進して、人々を幸せにする。

これこそが孫正義が一生を捧げるに値する山でした。

1981年 9月3日 福岡県内の雑居ビルにソフトバンクを立ち上げます。
資本金は1000万円で従業員は孫正義とアルバイト2人のたった3人でした。

孫正義は、アルバイト2人に最初の朝礼で

情報革命を起こそう!!
日本を変えよう!
30年後の我が社を見よ!

将来は豆腐のように、お金を一丁、二丁と数える企業になる。
一兆以下は物の数ではない!

そう豪語し、1時間以上かけてアルバイト2人に熱弁しました。

1週間後、2人のアルバイトは辞めてしまいました。
こいつは頭おかしい、気が狂ってるという理由でした。

しかし、孫正義の志は一瞬も怯みません。

すぐに勝負に出ます。

ここで今回の記事の後半に続きます。

これからどうなっていくかここからが山場となっていますね。

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